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非白人初のNBA選手となった日系人のワット・ミサカ氏が他界

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Twitter/Ogden City Council

11月20日、ワタル・“ワット”・ミサカ氏が95歳でこの世を去った。彼は1947年にアメリカのプロバスケットボールチームの一員となった日系アメリカ人選手だ。

 

 

その頃のプロバスケットボールチームは白人の選手ばかり。ミサカ氏はアジア人初、有色人種初のプロバスケットボール選手となった。

 

「センセーショナルなディフェンス」

 

ユタ州オグデンで日本からの移民の子として誕生したミサカ氏は、ソルトレイクシティにあるユタ大学のバスケットボールチームで活躍し、2度の全米優勝に貢献。その活躍を認められ、1947年にニューヨーク・ニックスからのドラフト指名を受けてプロ入りした。

 

第二次世界大戦終結から2年後、メジャーリーグに近代初の有色人種選手であるジャッキー・ロビンソンが入団した数ヵ月後、NBAに初の黒人選手が入団する3年前、八村塁選手がドラフト指名を受ける72年前の出来事だ。

 

開幕時にチームは、170センチと小柄なミサカ氏を「センセーショナルなディフェンス」としてプロモーションに起用した。

 

コートの外では差別も

 

真珠湾攻撃以降、大統領令により日系アメリカ人たちは強制収容所へと移送された。しかし、それは西海岸に住む日系アメリカ人たちが対象で、ユタ州出身のミサカ氏の家族は移送を免れていた。ワット・ミサカ自身は、大学時代には米軍に2年間服している。

 

プロ選手時代、ミサカ氏はチームメイトだけではなく相手チームからも差別を受けたことはなかったと過去のインタビューで振り返っている。

 

しかし、コートの外には色濃く差別は残っていたようだ。ニューヨーク・ニックスとの入団交渉の会場となったホテルは“白人ではない”との理由で、ミサカ氏が宿泊を拒否された。また、人種差別的な発言をバスケットボールファンから向けられることもあったそうだ。

 

「私は単なるバスケットボール選手だったよ」

 

ミサカ氏のプロ選手としてのキャリアは、それほど長くは続かなかった。3ゲームにだけ出場し、結果が出せずにチームを去った。

 

その後はユタ州にもどり、ソルトレイクシティで機械工学士として第二の人生を歩み始めた。結婚をして子供と孫に恵まれた。2000年には、ロサンゼルスの全米日系人博物館で「スポーツのパイオニア」として彼のジャージやスニーカーが展示されるように。

 

ミサカ氏の存在は日系人だけではなく、アジア系アメリカ人にとっても大きなものとなったが、彼自身は自分のことを「私は単なるバスケットボール選手だったよ」と振り返っている。

 

11月20日、95歳で永眠

 

11月20日、ミサカ氏の訃報が報じられると出身地であるオグデンの市議会は以下のツイートを投稿した。

 

「ワタル・“ワット”・ミサカの訃報に悲しんでいる。彼はオグデンのレジェンドだ。勇気を持って国に仕え、バスケットボールで壁を壊した。彼が我々に示した手本により、忘れさられることは永遠にないだろう。ありがとう、ワット」

 

スポーツチャンネルのESPNでは、ミサカ氏の功績を「ダイバーシティの真のパイオニア」と表現し、「2メートルを超えた選手たちの中で170センチの私がプレイするなんて不可能だと思うだろう。でも物事は変えられると手本を示すのは可能なのだ」という彼の言葉を伝えた。(了)

  

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